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こもぶちという場所の話

愛媛県。中でも坂本龍馬で有名な土佐の国に近い「南予地方」には、道一本でかろうじて交通網と繋がっているような集落が数多くあります。

それは山奥に限らず、開けた海に面した場所にも。

九州へ向かってにゅっと伸びた半島の突先「蒋淵(こもぶち)」も、その一つに数えられます。
この半島は曲がった斧のような形になっていて、その「柄」と「刃」の間にはわずかに隙間(海)がある為、文字通り「半分は島」と言える地形です。

「刃」と「柄」は橋一本でかろうじて繋がっている。赤線で囲った部分が蒋淵。

斧の「柄」の部分にあたる岬が近隣市街地と陸路で繋がったのもほんの60年程前の話なので、「刃」の部分は長らく「海に浮かぶ陸の孤島」状態でした。


しかし大昔に遡ってみると、ここは孤島でもなければ海に浮かんでもなく、ただの「陸の山」でした。

今より120mも海面が低かった2万年前、九州と四国は陸続きでありその間には草原すら広がっていたとされています。僕らの先祖がナウマンゾウを追って駆け回っていたかもしれない原っぱの外れに高さ300m程の小高い山があり、後の海面上昇によってその山の半分辺りまでが海水に浸かることになりました。

そしてその山の残り上半分が、現在私たちが「こもぶち」と呼んでいる場所というわけです。

今見えているのは「山の上半分」

半島周辺の海底の深さを示した地図。120mより深い場所はなく、陸だったことが分かる。

もともと山だったものが海に浸かるとどうなるかと言うと、「海から直で山」というハードな地形になります。短いところだと沿岸部から直線距離にして200mほどで高さ183mに達します。山にしたら低いと感じるかもですが、傾斜が45度近いのが恐ろしいです。
それに183mといったら超高層マンションの50階相当です。なんだか海に住んでるのか山に住んでるのか空に住んでるのか分からなくなりそうです。


実際は山のてっぺんに住んでも不便ばかりなので、蒋淵に根を下ろした先人たちはまず沿岸部を少しづつ平らに埋め立てて、そこに生活圏を形成していきました。

帽子のツバのように、山から海へ平らな部分を作った先人たち

そして生活に適さない傾斜地は「段々畑」として開拓されていきました。

決して傾斜地が農業に適していたわけではありません。
余りに傾斜がキツい為に1m程しか幅の取れない段も。それでは機械も入れません。全てが手作業です。さらに川らしい川もなく湧き水にも乏しい蒋淵、水を上へ上げることは大変な苦労でした。

そんな過酷な環境下、想像も及ばない労力の末に実った麦やサツマイモは、かつて不漁による食料難から何度も住民を救ってきました。

「穏やかな海の生活」を想像させる“半島ぐらし”にあって、対照的な「山で生きる意志」に圧倒される風景です。そんな半島に暮らす人と山との営みが垣間見える記述が資料の中にもありました。

『握りこぶし2つほどの大きさに彫刻された木を「山の神」として祭っている神社がある。この神社の祭日は1月20日で、お神酒、お米をお供えする。この日は山で味噌汁の匂いを嗅いではいけないと、昔から言われている。』


斜め上な忠告が逆に生々しいリアリティを醸しています。「なぜ味噌汁なのか」「嗅いだら一体どうなってしまうのか」という疑問を抱かせるより前に「とにかく嗅ぐまい」と思わせる言い伝えです。ご神体のサイズを握りこぶし単位で表しているところにも、生活の基本が手仕事であることからくる手へのリスペクトを感じます。

蒋淵を支えた生業と信仰

「かつて不漁による食料難から何度も住民を救ってきた」と書いた通り、蒋淵での農業はあくまでも「不安定な漁業を補完する生業」でした。

主たる漁業は江戸時代初期、網で一気に大量のイワシを捕らえる「イワシ網引き漁」から始まります。

漁獲量は年によって豊凶差が激しく、そのうえ多くの危険も伴う為、漁村民は自然と信仰心が厚くなります。それを示すように、小さな蒋渕半島の中には8つの神社にお寺、至る所にお地蔵様が見られます。

こもぶちの海際にひっそり佇む鳥居

資料によると「サンゴ礁のかけらを漁の神として祀る神社」や、「海で拾われた仏像を網玉神として祀る神社」、「漁師の網にかかった地蔵様を祀る寺」などがあるとのこと。海にそんなに神仏が落ちてるのかという驚きと、人と海を繋ぐ信仰の身近さを感じます。

「漁師の網にかかった地蔵様を祀る寺」に至っては『ここの水で目を洗うと気持ちがいい、という伝承がある。』とも書かれてあり、世の中こんなにほっこりする御利益があったのかと感動を覚えました。




かと思えば、切実さを感じる記述も多くありました。

蒋淵では毎年元日の朝早く、船の中の「船霊様」に鏡餅とお神酒をお供えして一年の豊漁と安全を願います。その「乗り初め」を終えると薄く切られた鏡餅を貰いに、近所の子供達が船に周りに集まりました。

続く二日三日の朝も早く、正月三が日は毎朝ある寺で和尚による説教が説かれます。それを受けることで「海で死んでも死体は上がる」と信じられていました。

「海で死なない」ではなく「死体が上がる=生死や身元がハッキリする」というあたり、海の仕事の前提と働く漁師の覚悟のようなものを感じます。

ちなみに、この説教が説かれる「海禅寺」の境内にあるシイの古木の下には、平家の埋蔵金が隠されているという言い伝えが残っています。実際、平家の落人の多くがこの地に流れ着いたという伝承が残っており、別の寺には“ヤシチロウ”という名前の平家落人の墓が残っています。

そして江戸時代中期、不漁・疫病が続いた際にはこれを「平家の落人の祟り」と考え、どうか鎮まり成仏されたまえと若い男女が船の上で踊ったものが、現在「宇和島無形文化財」にも指定されている「トントコ踊り」です。

蒋淵公民館に展示されていた写真

“亡者踊り”とも呼ばれるこの舞は「海で命を落とした者への慰霊、豊漁への祈り」として、二隻の船の間に渡した舞台の上、航行しながら奉納されます。壮麗な儀式です。

不漁・疫病に喘ぐ当時の蒋淵の人々は、海の上で踊り祈りながら山に登り土を耕し、くる年、くる年もそれを繰り返し、江戸時代末期をもって遂に上に紹介した段々畑を築き上げました。
それ以来、段々畑は幾度となく不漁のピンチを支えました。




時は流れて、網の大型化や船の性能向上に伴う「漁業の大規模化」により、段々畑もその役割を徐々に終え始めます。

昭和35年には121ヘクタールあった耕地面積も、その15年後には約70%減の32ヘクタールまで縮小。それまで当たり前にあった「農繁休校日(学校を休みにして繁忙期の農業を手伝う日)」もこの時期に蒋淵の学校から無くなりました。

段々畑の縮小前の姿。山のてっぺんまで、湾をぐるりと囲むように拓かれていた。

ところが、大型化・効率化されたとはいえやはり自然が相手。よりによって農地の縮小が一気に進んだ昭和30年代を覆うようにイワシの不漁が続き、相次いで網元が倒産。農地縮小という退路を断った大規模化路線が仇となって漁業が再び大ピンチに陥ってしまったのです。

海の中の山に花開いた養殖業

そんな蒋淵混迷の時期に、新たな基幹産業として幕開けを飾ったのが「養殖」でした。2万年前に海に沈んだ部分も元々は山なので、当然、「陸から即深い海」となります。養殖にとって最高な環境だったのです。

地の利を活かした養殖業は真珠に始まりハマチ、カンパチ、ブリ、真鯛と続き、10年ほど前からは岩牡蠣がそのメイン商品に踊り出ました。


と、簡単に書いてしまいましたが、その過程も並大抵なものではなかったはずです。
同じ「漁業」とはいえ、天然の魚を捕まえる沖合漁業と人の手で育てる養殖漁業では、猟師と農家ほどの違いがあり得ます。

現場のパイオニア達による膨大な数の研究と試行錯誤の積み重ねの上に、今の蒋淵は立っています。

一つ一つ石を運び、一段一段積み上げたように。

山に築かれた段々畑はその役割を終えつつも、そこに流れる開拓精神は形を変えて海の畑に流れています。

トントコ。トントコ。
祈るように踊り、踊りながら耕す。
目に見えないものを大切に、目の前のことを着実に。


ありふれた田舎の漁村には、ありえない一途さで紡がれた物語がありました。


これを読むあなたが今、絡まった糸玉みたいな交通網の中に住んでいるのなら、そこからほつれた一本道を手繰ってここまで来てほしい。
一途な土地柄と美味しい海の幸に、心身もほどけて帰れるかもしれません。

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【参考資料】
『蔣淵の歴史(所在地・歴史・行事・信仰編)』
編集者:大嶋真人(東向山智光院光照寺)
他、蒋淵公民館提供資料。

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